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映画『パウロ ~愛と赦しの物語~』の裏話

更新日:2023年10月25日

映画『パウロ ~愛と赦しの物語~』(アメリカ、108分)の概要

紀元67年、ローマの街を大火事が襲った。 皇帝ネロはキリスト教徒による放火とし、首謀者はタルソのサウロ(別の名をパウロ)として彼を逮捕した。牢獄に入れられたパウロのもとを仲間である医者ルカが訪ねる。ルカはパウロの言葉を人々に伝えるために書き記していく。 ネロの迫害は激しさを増す一方だったが、パウロはアキラとプリスカの夫婦にかくまわれているキリスト教徒たちに、暴力ではなく愛をもって戦うことを伝える。だが血気にはやった彼らは剣を取ってローマ軍に立ち向かおうとする。 使徒となる前のパウロは、キリスト教徒たちを迫害する側の人間だった。回心前の自分が殺めた人々の夢を見て、うなされるパウロ。彼はなぜキリストの弟子になったのか? 一方、パウロを迫害する獄舎の長官マウリティウスの娘が瀕死の病となり、頼みの綱はルカだけだったが・・・。捕らえられ、殉教していった弟子たちに続き、パウロにも運命の時が迫る。弟子テモテに最期の手紙を書くパウロの心境は?そして娘の運命は?

メイキング映像(4分39秒)より:

物語はパウロの最期の時に始まる。彼はローマの獄舎だ。皇帝ネロにローマ大火の主犯に問われ、暗黒の独房に。聖書「使徒の働き」でパウロの人生の重要人物は医者ルカだ。彼はローマに潜入し、パウロの最期を慰めようとする。そこで二人はパウロの物語を世に出そうと決心し、「使徒の働き」が生まれたんだ。

初代クリスチャン受難の日々だ。パウロは死を目の前にして使徒たちに、希望と愛と赦しの教えを伝えいかなる危険に直面しても信仰に堅く立つよう命じるんだ。

脚本を読んで驚いたのはキリスト教の存続がほんの一握りの人にかかっていたことだ。

プリスカとアキラは基本的に表には立たずに助けの要る人を連れてくるの。

彼らは迫害、抹殺、追放、あらゆる危険にさらされていた。それでも人々を歓迎し、受け入れ、愛した。“言うは易し、行うは難し”だ。

これは“現代劇”だね。シェイクスピアやモリエールが通じるのと同じだ。人間や人間性を語る偉大な話しは、決して消えることはない。

この映画の内容は、世界中で普遍的ですね。聖書の人物が皆“等身大”だ。観客は映画を見て言うでしょう。「なんだ彼らは俺と同じ罪びとだよ」

皆とても人間くさくて、あけすけなの。疑うし、恐れるし、怒るし…生身の人間よ。

誰かが人生で劇的な変化を遂げる。“殺人者”がキリスト教史上最大の人物になるのが心をそそるんだ。

我々は登場人物たちを台座に祭り上げ、“あんな聖人君子にはなれない”と思う。“彼らは神に特別に選ばれた、別世界の人間さ”と。でも実際は僕らと同じ人間だ。“後光”を頭に生まれたわけじゃない。

パウロは敵対者からキリスト教会のリーダーになった。現代人の我々は、“人間は、ほんとに変われるのか”と思う。我々は、その人が今やっていることを見て、一生を決めてかかる。パウロは誰も神の恵みから漏れず、変わるチャンスがあることの見本なんだ。

その時代のあらゆる障壁を越えて、信仰を広めたのはパウロだ。不撓不屈だった彼に、大いに感謝すべきだね。

この老人はイエスのために全てを捨て、鞭打たれ、やつれ果てている。その人生に最期の時が来る。この弱々しい男を、世界最大帝国の皇帝が恐れる姿は、使徒たちを通して働くキリストの力を示しているんだ。

物語でこのテーマを伝えられると思うと、興奮するよ。今は世界が、愛や、あわれみや、恵みについて聞きたがり、また人間より大きな神が自分を愛し、分かってくれる話を聞くのに飢え乾いているからね。

ルカ役のジム・カヴィーゼルによるメッセージ映像(14分48秒)より:

「サウルは“偉大な者”、パウロは“小さき者”」

サウロ(Saul)は“偉大さを”意味し、パウロ(Paul)は“小さい”意味です。この映画に出て、ほんの1文字SをPに変えるだけで、神の目に偉大な者になれると知りました。偉大さを望む者は、小さくなるべきです。これが聖徒たちの道です。聖なる者の道なのです。サウロは、こうしてパウロになりました。神の召しは思いがけない時に来ます。私の召しは、はっきり覚えている。こんな体験でした。19歳の私は、故郷ワシントン州マウントヴァーノンの映画館に座っていました。映画が終わったあとの暗闇で、隣の席のバスケの球だけが見守る中で、“私は役者になる”という衝撃的な思いが心を打ったのです。“私は、そのために創られた”。“それが神の望まれることだ”と。もちろん、私の理性が割って入りました。演技も知らず、エージェントもマネージャーもなし、肝心のセリフの暗記もダメ。でも私は確信した“これは召しだ”と。2000年の春、私は「モンテ・クリスト伯」のエドモン・ダンテス役を頂いた。それはデュマの古典の新しい翻訳でした。ストレスの連続だった。私は初めて、制作の面でも責任を持ちました。長年、望んでいたのに平安がなかった。その映画は全てが戦いでした。私の役ダンテスは、本当に投獄されました。原作も映画でも、私は獄の壁に文字を彫ります。“神は正義を下さる”と。絶望的な環境の中で、この孤独な男は脱出に命を懸けたのです。自分の心の中の悪からさえも。エドモンと、名優リチャード・ハリス扮する同じ囚人の神父のすばらしいシーンがあります。自己憐憫と絶望感に陥る彼に、瀕死で地面に横たわる神父が向き直り、言います“君の最後の学科だ”“君がここに入れられた同じ罪を犯してはいけない”“復讐は私がする”と神は言われる。エドモンは、「でも私は神を信じていない」と。神父は答えます。「心配ない、神はお前を信じている」と。そのとおり、神は一人一人を愛しておられます。絶望の暗闇の中でも神は、あなたと共にいます。

映画の撮影終了後、メル・ギブソンから突然の電話がありました。我々からは電話していないし、私は彼をしりません。彼の新作は、誰も知らないので役を求めもしません。彼は「イエス・キリストをやってくれ」と言いました。彼は頭文字が“J.C.”で、33歳の男を捜していたのです。イエス・キリストと同じに。偶然でしょうか?そうは思えない。あなたの人生は偶然ですか?あるいは、成り行き?あなたは今、惨めかもしれない。混乱し、先が見えず、心は傷ついている。今は退き、屈する時じゃない。十字架の上で私は学びました。主の苦しみで私は贖われたと。“弟子はその師に勝らず”です。我々は自らの十字架を負わねばならない。我々の信仰や自由には負うべき値がある。私は文字どおり苦しめられ、鞭打たれ、十字架につけられ、雷で打たれました。まさに“開胸手術”です。5か月半の高体温のあと、ある異変が起こりました。ある日、撮影中、私の腕が重い梁に挟まれました。誰かが別方向にグイを引いたからです。私の筋肉はねじれ、肩は脱臼しました。私は地面に倒れ、頭は砂に突っ込みました。そのシーンは映画に残っています。映画の後半でイエスは肩を脱臼しますが、私はその痛みを、身をもって知りました。私は毎日、その梁を担ぎました。それは“苦行”でした。それは私の肩を剥ぎ、筋肉を引き裂きました。時間と共に重さが増しました。スタジオ撮影だったら、こんな光景はなかったでしょう。私の演技は苦しみの産物です。苦しみが人生をつくるように。

ご存じのように、今、ある人たちは、ニセのキリスト教を楽しんでいます。あるのは“ハッピー”な話しばかり。私は“ハッピーイエス教”と呼んでいます。だが喜びの復活の前には、多くの痛みと苦しみがあったのです。あなたの道も同じです。だから、あなたの十字架を抱いて、ゴールを目指しなさい。私が願うのは、皆さんがこの異教の世界に出てゆくこと。勇気をもって、この異教の地に踏み入れ、恐れずに、あなたの信仰を表してほしい。この世界には、信仰に燃えた誇り高き戦士が必要です。パウロやルカのような戦士が。彼らは名前も名声も捨て、イエスへの信仰と愛を世に知らせました。神は偉大なことをするために我々をあなたに召しておられます。私たちは、何度も召しへの応答に失敗しました。単なる気のせいにしたのです。今こそ、この時代の者が召しを受け入れる時です。あなたの道を導く、優しい御手を見るために。私たちの全てを神にささげるよう促す神の召しです。その献身は、祈りから始めなければなりません。断食をし、聖書を瞑想し、真剣に聖礼典を守ることです。我々は“墜落の文化”の中にいるのです。もし人々が“行き過ぎ”に負けそうなら、世界全体が罪に、はまっているのです。私たちの心の奥深くに、神は呼びかけておられます。一人一人に「お前の全てを私にささげよ」と。私たちは幾たび、この方をその甘美な声を無視したことか。アウシュビッツで殉教した偉大な聖徒コルベ神父は、“無関心”は、20世紀最大の罪だと言いました。兄弟姉妹、それは、21世紀最大の罪でもあります。我々は、この無関心、破壊的な“悪への寛容”を捨てるべきです。キリストの知恵による信仰だけが私たちを救うのです。それには、真理のために自らの名声も名も命さえも捨てる、戦士が必要なのです。この墜落した世代から自らを分離なさい。そして召しにふさわしい聖徒になるのです。あなたは生まれながらの“傑出の人”だ。

この国で“流れに身を任せる”には、我々は幸福すぎるのです。結果がどうであれ、我々には物事を平等に選べる“自由の神殿”がある。これが真の自由だと本気で考えていますか?教皇ヨハネ・パウロ二世は、言いました。“個人と社会倫理への共通理解がなければ、民主主義は維持できない”と。民主社会への基本的疑問は、これです。“どのように共存すべきなのか?”この答えを探しながら。我々は倫理的な真理と理性を排除できるのか?この国の全ての世代は知るべきです。自由とは、やりたいことをやるのではなく、やるべきことをやる権利の確保だと。これが望むべき自由です。罪からの、弱さからの、罪のもたらす奴隷状態からの自由です。それが命を懸けるに値する自由です。オスカー受賞作「ブレイブハート」でのメル・ギブソンの言葉を思い出します。彼の、にわか兵士たちへの言葉を皆さんにも言いたい。「ここに、圧政に立ち向かう我が同胞の全軍が集結した」「君らは自由人として戦うために来た、君らは自由人だ」「自由なしに何ができる?君は戦えるか?」男は「いや、逃げて生き延びます」と。「確かに戦えば死ぬ、逃げれば生きられる」「しばらくはね」「やがて死の床に就いた時、君は逃がした唯一のチャンスに気がつくのだ」「ここに戻り、敵にこう言うチャンスを」「『命は奪えても、自由は奪えないぞ』と」人は皆死ぬが、皆が本当に生きるわけじゃない。我々全てが真の自由のために闘い、生きるのです。神により必ず生きる。聖霊を盾とし、キリストを剣とし、墜天使ルシファーらを地獄に再び追い落とす聖天使ミカエルに合流するのです!

サウルとは“偉大な者”、パウロは何でしたか?“小さき者”。では神の目に偉大になるために、どう“小さく”あるべきか?答えを言ってしまった。“どうあるべきか?”小さき者になれ。神が皆さんを愛し、人生の日々を守り、導かれますように。ここで会えたので、天国でも会えますね。神の祝福あれ。


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