私は弱い。遠藤周作『沈黙』キチジローから学ぶ
映画『沈黙』に登場するキチジロー(窪塚洋介)は、何度も何度も、繰り返し踏絵を踏み、狡賢い人間や弱い人間のように描かれていたかもしれない。しかし、神様から離れられず、宣教師のロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)をつきまとうのであった。
キチジローは、主イエス・キリストの弟子のひとりでありながらも主イエスを裏切るユダと重ね合わせているようにも思えるかもしれない。ただ、ユダと異なる点として、首を吊って自殺をしなかったことである。自殺は、キリスト教にとって最大の罪である。彼は、拷問や弾圧に怯え、何度も信仰を捨てそうになるが、捨てずに生き続けていた。キチジローは、告解の中で、「俺は生まれつき弱か。心の弱か者には、殉教(マルチノ)さえできぬ。どうすればよか。ああ、なぜ、こげん世の中に俺は生まれあわせたか」と、自分の弱さを嘆いていた。確かに、殉教ができず、仲間を裏切り続けている彼は、弱い人間かもしれない。
キチジローは、本当に弱い人間なのだろうか。弱い人間なら、見つかれば捕らえられ、拷問を受けることを承知しながらも、ロドリゴのような危険な存在につきまとうだろうか。そして、自分の身に危険を及ぼすキリスト教の信仰を捨てるだろう。
そもそも強い人間とは、どのような人間を指すのか。仲間を裏切らない人間だろうか。踏絵を踏まない人間だろうか。それとも、殉教する人間だろうか。一概に、強い人間を定義づけることは難しい。ただ、彼は、生き続けることによって数多くの死を目撃し、苦悩する。私は、このような時代の中で、神様から賜った命を大切にし、苦悩することを受け入れてでも信仰を捨てなかった彼が、強い人間のように思える。
人間は、弱い生き物だと思う。弱いから人間なのだろう。